「対案を出せ」という心理操作

いまから遡ること20年前、まだ新入社員だったころ、会社の先輩から「評論家になってはいけない」というアドバイスをいただきました。何か新しいことを試みるとき、それを批判的に見たり論評したりしても話は進まない、評論家にならず手を動かせ、というメッセージだったと思うのですが、当時大学卒業したてで右も左もわからずにいた私は、なるほどこれが仕事をするということか、と感心した覚えがあります。

その後も「評論家になってはいけない」のいろいろな変種を耳にしました。「思いつきなら誰でも話せる」「Get things done」などなど。たいていは「考えているだけでは物事はどうなるかわからない。行動するべし。」という勧めなのですが、なかには物騒なものもあります。そのなかで私が極めつけだと思っているのは「対案を出せないなら黙っていろ」あるいは「何か言うときには対案を出せ」というやつです。

「評論家になってはいけない」という警句は自らの反省をうながすために心の片隅においておいてもよいと思うのですが、「対案を出せないなら黙っていろ」は他人の発言を封じるための脅しあるいは呪詛のようなもので、強い反発を感じます。厄介なのは、対案がないと話が一旦止まってしまうというのは事実であり、またこういう強い言葉が出るときは大抵なにかの締切が迫っているときだ、ということです。このような場合、対案もなく疑問を提起したりすることは「非生産的」というレッテルを貼られてしまいがちです。

しかし、本来、現状に問題があるということと、それにたいする案があるというのは別の話です。それらをごちゃ混ぜにして「対案を出せないなら黙っていろ」というのは、なんの責任もないこと(対案を出す)を持ち出して動きを封じようとするヤクザな交渉術です。それは論理的な説得ではなく、単なる(無意識な)心理操作の一種です。

対案を出さずに単に批判することが許されない雰囲気になると、そもそも批判的にモノを見ること自体を自粛するようになってしまいます。そうした自粛が続くと物事を考える力が弱まりいずれ考えることが億劫になってきます。(運動と一緒で、考える力も常日頃からある程度使っていないとドンドン劣化していきます。)「なにか対案は出せないか」と自分に問いかけることは大事だと思いますが、それを「出せないなら〜」という格率に昇格させて自縄自縛になるくらいなら、そんな問いかけは忘れてしまったほうがよいと思います。

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