本歌は言わずもがなの
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば
昔はものを 思はざりけり
ですが、表題の歌はある先生が今の人工知能ブームのはるか以前に詠まれた歌だそうです。(以前の上司が教えてくれたのですが、どなたが詠まれたのかは忘れてしまいました。ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。)
私の専門は自然言語処理といい人工知能の一分野なので、AIについてもいろいろと考えることがあるのですが、まさにこの歌のとおりだと感じています。
玉ねぎの皮むき
「AI技術は実現すると誰もAIと呼ばなくなる」という格言が端的に表現しているように、AI研究の歴史を見ていると玉ねぎの皮をむき続けているような印象を受けます。以前はチェスは最高の知能を必要とすると考えられ、国を代表して対局するプレイヤーは尊敬の対象でした。(この時代の雰囲気は「完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯」に詳しく描写されています。)ところが今やチェスでは人間はコンピュータに全く敵わなくなり、チェスが強い=知性のあかし、というようなことは誰も言いません。チェスができても囲碁は機械には無理だということを言う人もいましたが、AlphaGo Zero の登場でそういうことを言う人もいなくなると思います。
ゲームの分野だけでなく、音声認識や物体認識もかつては典型的なAI技術だと考えられていましたが、技術の進展とともに、研究者の間では知能を必要とする問題というよりは、純粋に工学的に解決可能な問題という見方が一般的になっている気がします。(認識することをラベル付けすることと考えた場合、という注釈をつけたほうがいいかもしれませんが。)私が現在本業としている機械翻訳でも、ちょっと前までは言葉の意味といったAIド真ん中の問題を考えない限りこれ以上技術の進展は難しいのではと思っていたのですが、ニューラル翻訳があっさり壁を破ってしまって驚いています。
皮むきの果てに
とはいえ、個人的には機械翻訳はまだまだ「工学的に解決可能」という気はしていません。おそらく他のAI分野でも研究者たちがそう感じるものは沢山あるのだと思います。ただ、その一方で、皮むきを続けていくといずれは工学的に解ける部分でだいたいの用は足りてしまうという状況になるのではないか、という気もしています。
そのとき虚しさを感じるのか、まだ残っている部分の皮むきを続けるのか。はたまたついに皮をむけない何かに突き当たるのか、それとも、何か知能というものについて壮大な勘違いをしていることに気づくのか。いずれにしてもしばらくは楽しめそうです。