ファインマン曰く「私は自分に作れないものは、理解できない」ファインマン先生でもわからないんだったら、私なんぞなおさら、作れもしないものが理解できるはずがないわけで。
私は言語(Python とか JavaScript とかのコンピュータ言語ではなくて、日本語とか英語などの人が話す言語)を扱う仕事をしているので、言語を理解したいと思っています。なので、ファインマン先生の御言葉にしたがうなら、言語を作ってみないといけません。
けど、言語を作ると言っても、中二病全開で自分にしかわからない(そして半年後には自分にもわからない)謎の文字列をノートに書き出し始めても、ちっとも言語を理解できるようになる気がしません。そもそも、言語は人に使われて始めて言語になります。一人で作って悦にいっていても、言語を作ったと言えるかどうか微妙です。
言語クリエーターという職業
ところがどっこい、世の中には言語づくりにいそしむ人達がいます。さらに趣味の域を超え、対価をもらって言語を作る人達がいるというのを “The Art of Language Invention” という本から学びました。
Wikipedia によると、著者の David J. Peterson さんの肩書きは「言語クリエーター (language creator)」。そんな人達が実在すると知らなければロバート秋山のキャラとしか思えない職業です。そんな Peterson さんは Game of Thrones などのドラマや映画で使われている架空の言語を作成した方で、その筋では有名人とのこと。Amazon(.com) での評価も良かったので、Game of Thrones の裏話みたいなものへの期待と、変わり者興味深い人達への関心から、購入しました。
しかし読みだしたら、ビックリ仰天、うぃんたーいずかみんぐ。
なんと言語学の入門書でした。
音声学からはじまり、形態論、統語論、言語発展、さらには、書記体系からフォントの話まで。普通の言語学の教科書ではカバーされない(フォントの話が載っている言語学の教科書なんて見たことがないです)けれど、ありのままの言語を考える上では避けられない話題まで載ってます。
言語を作るというと、一所懸命辞書を作るというイメージがあったのですが、本書の中ではなんども、言語というのは体系である、適当に単語を作っていくだけでは体系としての整合性が取れず言語の体裁をなさない、という点が強調されます。また、言語というのは時間とともに変化していく、変化せざるを得ないものなので、言語の作るときにはその言語がどういう歴史(それもまた架空のものですが)を経て変化してきたのか、そこまで考えないといけない、ということも強調されています。
これらは通常の言語学でも当然のこととして教えられることですが、著者の Peterson さんの場合、整合性を取りそこねて実際に痛い目にあったという経験があるだけに重みがあります。
贋作者は真髄に迫る
あらためて考えてみると、新しい言語を作ろうとしたら、まず言語とは何かをあきらかにしないといけないわけです。適当に書き連ねた文字列をいくら言語だと言い張っても、そこに「言語らしさ」がない限り、それは言語とは認められません。
一方、自分が普段喋っている言語(私の場合は日本語)については、ちょっと事情が違います。他の人がなんと言おうが、その(日本語話者である)自分が喋っているというだけで、それが日本語だと主張するのは一応の理があります。
美術品の贋作にも似たようなことが言えます。贋作を作る人は単に本物のコピーを作りたいわけではなく、もし同じ作者がもう一つ作品を作っていたとしたらこういうものだったかもしれない、そういうものを作りたいわけです。バレない贋作を作るために、単なるコピーを超えて、その作者の作品足らしめている要素は何か、それを知らないといけません。
真作の真髄を徹底的に追求する、それが本物の贋作者(なんだかヘンな言い方ですが)なのでしょう。著者の Peterson さんからもそういう姿勢をひしひしと感じます。美術品の贋作と違い、言語作りに失敗しても犯罪になるわけではないですが、ショボい仕事をするとファンたちからボロクソに叩かれて、仕事を失ってしまう可能性もあります。心理的には贋作者と近い面もあるかもしれません。
言語贋作者の見る夢は
今のところ、言語クリエーターは趣味でお互いの作品を見せ合ったり、映画などで使われる言語を作成したり、というところが主な活動のようです。しかし、それで満足なのでしょうか。時にはもっと大きなイタズラを仕掛けたくなったりすることはないのでしょうか。例えば、少数民族の話す言語の中でとても興味深いものが見つかった(ということにして)、自作の言語を学術論文に投稿してみる、とか。。。
お叱りを受けそうなので、言い訳しておくと、もしそういった論文が査読を通ったとしたら、その言語は十分「言語」としての性質を持っていると言えるかどうか、に興味があります。もし、そうでないのだとしたら、言語であるというためには何が足りないかについて、見落とされていることがあるのかもしれません。
最後に著者のあとがきに素敵な言葉があったので紹介して終わります。
Ultimately, a language is nothing more than a system to encode meaning. The possibilities of what to encode and how to encode it are endless, and in about one thousand years of active language creation, we’ve barely scratched the surface of what’s possible.
結局のところ、言語というのは意味を記号化する仕組みに過ぎない。何をどう記号化するかには無数のやり方がある。約千年にわたる言語創造の歴史ではまだそのほんの一部を垣間見たに過ぎない。