「可能性」の意味

「翻訳の不可能性」、すなわち、翻訳なんてことはできない、と主張している人たちがいます。字幕や吹き替えの外国映画がいくらでもあるこの御時世に、一体何を言っているのかと思われるかもしれませんが、主張している人たちは大真面目で、ちゃんと理由もあります。

それはさておき、面白いなと思ったのは「翻訳の不可能性」と似ている「翻訳の可能性」というフレーズはだいぶ違うニュアンスを持つということです。「翻訳の可能性」と聞くと、翻訳ということができるのかという話ではなく、翻訳によってどのようなことが実現できるか、という話を期待させます。「不可能性」と「可能性」という単語だけ見ると逆のことを意味するように感じますが、「翻訳の」に続けるとだいぶ違うことを意味するようになるのが面白いです。

少し考えてみると「Xの可能性」と「Xの不可能性」のニュアンスがこのように異なるかどうかは、Xが何かに依存するようです。たとえばXを「タイムトラベル」としてみます。すると「タイムトラベルの可能性」というのは、そもそもタイムトラベルはできるのかという話でしょう。逆に「タイムトラベルの不可能性」というのは、そんなことはできないだろうという話を期待させます。実現できるかどうかについての態度は逆ですが、実現できるかどうかについて語っているという点では同じ方向を向いています。これは X が「翻訳」のときとは大分様子が違います。

しかもややこしいことに、誰が言っているかによってまた話は変わります。仮にある人が、タイムトラベルは実現可能でかつ実際にできるようになるのは時間の問題だ、と固く信じているとしましょう。その人が「タイムトラベルの可能性」という題で講演したとしたら、おそらく内容はタイムトラベルができるかどうかの話ではなく、タイムトラベルにより実現できることについてとなるでしょう。こうなると「タイムトラベルの可能性」というフレーズが話し手に依存しない確定した「意味」を持つと言えるのか怪しくなってきます。

さらにもう一捻りすると、タイムトラベルは多分できるんじゃないかと思っているけれど、それほど確信があるわけではない人が「タイムトラベルの可能性」と言った場合、それは「できるかどうか」の意味での「可能性」と「それにより実現できること」という意味での「可能性」を両方意味するかもしれません。しかも、その多義性について必ずしも自覚的でないことも十分ありえます。こうなると、そもそも「可能性」という言葉の意味を色々分けて考えることにどれくらい意味があるのかすら疑わしく思えてきます。

とはいえ「可能性という言葉には本質的に一つの意味しかない」と言い切ってしまうのも乱暴すぎる気がします。実際、タイムマシンは可能だと確信している人とそんなものができるのかなと思っている人が、「タイムマシンの可能性」というお題で議論を始めたらば、話が噛み合わないことこの上ないでしょう。そういう状況を指して「可能性という言葉を違う意味で使っているからだ」と言うことはまったく妥当だと思われます。逆にそこで「いやいや深いところでは同じ意味なんだよ」と割り込んでいっても何の助けにもなりません。

「意味」というのは言葉の最も重要な機能でありながら、それが一体何のことなのか把握するのは難しいもので、いまだに決着がついているとは言い難い状況です。私自身もわかったようなことを言うつもりはないのですが、多義性・曖昧性という性質は言葉の意味にとって本質的で、後づけで考えるのではなく最初から考えにいれなければいけないのではないかと思っています。この記事でそのモヤモヤが少しは伝わったでしょうか。

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