理性のダークサイド

パスカルの「パンセ」を読んでいたら、こんな一節に出会いました。

理性が心に対して、第一原理に同意したいからその証拠を見せてくれと要求するのは、心が理性に対して、きみの証明した命題を受け入れたいから、その正しさを感じさせてくれと要求するのと同じくらいで無用で滑稽なことだ。(岩波文庫「パンセ(上)」p. 132)

この「心」と訳されたものが何を意味するのか研究者の間でも議論があるようですが、ここでは理性とは対照的な「理屈抜きで直感的に把握する能力」とします。「第一原理」はこの一節の直前に「空間には三次元があり、数は無限であること」という例があるので、「教えてもらわなくても知ってること」という意味だと解釈できます。(これらが本当に教えてもらわなくても知っているような類のことなのかは疑問の余地があります。気になる方はさらに遡り「空間がある」「時間がある」「数がある」というあたりを「第一原理」と考えていただいても、以下の議論には差し支えありません。)

子供は何についても「どうして」と質問します。それに対して大人はまずは理屈で説明します。つまり「それは〜だからだよ」と理性に訴えてるわけです。しかし子供がなお「それはどうして」と食い下がってくると次第に説明するのが難しくなります。最後には「世の中がそうなっているから」という説明になっていない答え、つまり理性には訴えず「心」で受け入れる(諦める)よう要求するようになります。

しかし、子供の方でもそれが説明になっていないのはなんとなくわかります。なので「そうじゃない!『どうして』か聞いてるの!」と抗議したりします。これはまさに大人が提示した第一原理(「世の中そうなっている」)に同意するための証拠を見せてくれと、子供の理性が要求しているわけです。それにたいしてパスカルは、それは今まで説明したことを理屈抜きで納得させてくれと言っているのと同じくらい意味のない質問だ、と逆ねじを食わせてきます。

こう言われると一本取られた感じがしますが、何かモヤモヤしたものは残ります。大抵の人はモヤモヤを抱えたまま成長するうちに、いつのまにかモヤモヤが薄れて「あのころは若かったな」とか言うようになりますが、なかにはモヤモヤがそのまま大きくなって「結局、理性なんてものは何の頼りにもならない」という極端な懐疑主義、理性の暗黒面に陥ってしまう人もいるでしょう。またそこまで極端でなくても、暗黒面への共感が無意識のうちにくすぶり続けなにかの拍子に噴出する、ということは普通にあると思います。

パスカルは、理性の出発点となる第一原理は受け入れろ、さもなければ永遠に理性の迷路をさまよい続けるぞ、と脅してくるわけですが、そうやって外部から抑圧しても、人はそれに反抗します。むしろ抑圧することで抑圧された思いはより魅力的に見えてきます。脅す以外に何か方法はないものでしょうか。

対話と懐柔

理性だけに頼ってモノゴトを説明しようとすると、結局のところ「どうして」の無限連鎖に陥ってしまいます。かといって適当なところで打ち切って、あとはそういうものだと受け入れなさい、では暗黒面へ陥ることは防ぎ難い。八方塞がりのように思えますが、理性的に考えることを擁護する人たちが昔から取る戦術がいくつかあります。

まずは対話を通じて、あることに疑問を持った人が実は既にそれを知っている(受け入れている)ということを示す方法。ソクラテス式問答とかソクラテス・メソッドとか呼ばれるもので、プラトンの「メノン」という書物の中で紹介されている、メノンの召使いとソクラテスの間での問答が典型的な例とされています。この方法のポイントは、自分が既にそれを受け入れていることは心情的に否定しがたいという点です。

人間はいろいろと矛盾した考えを抱えたまま生きていくことができますが、それを面と向かって指摘されると「それがどうした」とはなかなか開き直れません。疑問が解消したわけではないですが、疑問に思うことを自粛(自己抑制)するようになるので、他人から押さえつけれられるより暗黒面へ転落する危険性は少ないと言えます。

もうひとつは、もしこれを受け入れればいろんなことが納得できて悩みが減るよ(だから受け入れたらどうかな)と懐柔する方法です。現代だと一番わかり易いのは自然科学の知識です。結局のところ科学の知識は「世の中そうなっている」という第一原理の集まりです。第一原理にたいする「どうしてそうなっているの?」と問うても科学のなかに答えはありません。そのかわり、もし科学の第一原理を受け入れたらば、こんなこともわかる、あんなこともできる、と豊かな世界を描いてみせることができます。パスカルが生きていたような時代だとキリスト教の教義などが人生を幸せに暮らすための第一原理だったでしょう。

大部分の人間にとって、ストイックに神も科学も信じず・頼らず生きていくのはあまりにも辛い生き様です。それよりは第一原理を受け入れて生きていこうと考えることは自然なことです。また人は一度受け入れてしまうとそれを自己肯定するようになり、えてして強力な擁護者になります。理性の擁護者からすると一挙両得な方法です。

仲良く口喧嘩

さて、さんざん書いておいてなんですが、私はどのみち理性だけで押し切るのは無理がある、つまり懐疑主義の人たちが言うことはもっともな側面がある、と認めます。どんな手を使おうが純粋に理性だけで話をまとめることはできないだろう、つまり、懐疑主義に全面勝利して暗黒面を一掃する、なんてことはありえないだろうと思っています。むしろそんなことになりそうだったら、おそらくそれは理性擁護の皮をかぶった化物なので、全力で逃げ出して暗黒面に加担しようと思います。

その一方で、懐疑主義が勝利をおさめることもないと思っています。懐疑主義的傾向は健全な理性に欠かせないものですが、それだけでは何も生み出しません。大多数の人にとって重要なのは知識の実用的な価値です。(ここでは広く経済的な価値だけでなく、人々の幸福に寄与する全ての価値を考えます。)その中で真理かどうかということは最重要事項ではありません。懐疑主義は正しい態度なのかもしれませんが、実用的な価値を生み出す力は非常に弱い考え方です。したがって、大多数の人がそういった考え方に陥って身動きできなくなる状況は考えにくいと思います。

理性に懐疑的な人の多くは理性を否定する人ではなく、理性のファン(私もその一人です)をちょっとキモいと思っている人で、その中の極端なアンチが懐疑主義者なのではないかという気がします。ファンがいなければアンチもいませんし、アンチがいないとファンのやりがいもなかったりします。お互い極論に走らず、ときおり仲良く口喧嘩するぐらいの関係がいいのではないでしょうか。

優しく厳しいパスカル先生

ところで、パンセをさらに読み進めたら、こんな言葉が出てきました。

不信の徒に同情することから始めること。彼らはその境遇だけで十分不幸なのだ。彼らを罵倒してはならない。それが彼らの役に立つのなら話は別だが。だがそれは彼らにとって有害だ。(同上 p. 211)

私のような不信の徒にとっては優しい気遣いです。が、すぐあとで釘を刺されました。

理性の最後の歩みは、自らを越えるものが無限にあることを認めることだ。それを知るところまでたどり着けなければ、理性は弱いものにすぎない。(同上 p. 228)

先生、厳しいっす。

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