ノイラートの船にのって

「ノイラートの船」というたとえ話があります。

われわれは、乗船中の船を大海原で改修しなければならない船乗りの様なものである。一から組み直すことなどできるはずものなく、梁を外したら間髪入れず新しい梁を付けねばならないし、そのためには船体の残りの部分を支保に利用するしかない。そういう具合に、古い梁や流木を使って船体全てを新しく作り上げることはできるものの、再構成は徐々にしかおこなえない。(Wikipedia「オットー・ノイラート」 より引用)

ノイラートさんは「どうしたら世界のことを正しく知ることができるのか」という問いにたいして、100%確実な事実だけからスタートして論理的に知識を積み上げていく(言うなれば、いちから船を新造する)のは無理な話で、既に存在している完璧でない知識を少しずつ改修していくしかないということを、既に出港してしまった船にたとえて伝えたかったそうです。

元々の文脈は科学哲学とか認識論ですが、「ノイラートの船」があてはまることは世の中いたるところにある気がします。

たとえば、言葉。

普段意識して言葉を使うことはありませんが、言葉の解釈がずれていてトラブルが起きたり、言葉遊びで過剰装飾された文章を読んだりしたときには、言葉の「欠陥」に意識がむきます。そうした場合、「こういう表現には気をつけないといけない」と反省したり、「言葉遊びに陥らないためにはどうしたらいいか」と考えたりします。ときには周囲の人にも注意をうながしたり議論したりして、ちょっとした変化を起こそうと試みます。しかし、「あぁもう日本語はダメだ。もっと良い言葉をいちから作ろう」とは思いません。もしやり始めたとしてもせいぜい変わった趣味で終わるのが関の山でしょう。

あるいは、社会制度。

私が生まれたときには、憲法やら法律やらもろもろの社会制度が一揃い用意されて(押しつけられて)いました。まぁそんなに悪くないとは思うのですが、しばらく生きているとどうしてもイマイチなことが出てきます。そうした場合、「じゃあ次の選挙では○○に投票しようか」と考えたり、「ブログでブーブー言ってみたら共感されてなにか起きないかな」と変化を期待したりします。しかし「あぁ日本をはダメだ。もっと良い社会をいちから作ろう」とは思いませんし、もしやり始めたとしてもせいぜい変人扱いされて終わるのが関の山でしょう。

言葉も社会制度も既に出港してしまった船です。現実を黙々と受け入れて何もしないでいたら沈んでしまうかもしれません。かといって今から港に引き返していちから作り直すのも無理な話です。とりあえず、船底にたまった水を掻き出したり、じゃまな荷物を片付けたり、ときには梁を取り替えたりしながら、楽しく生きていこうと思っています。

 

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