嫌いな言葉ですが「情弱」という単語があります。執筆時点で Wikipedia では以下のように説明されています。
情弱(じょうじゃく)はもともと「情報弱者(じょうほうじゃくしゃ)」の略称だが、この意味で使われることは少なく、インターネット上などでは別の意味で用いられることが多い。
1. 情報弱者。情報環境が良くない場所に住んでいたり、情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でないために、放送やインターネット等から必要な情報を享受できていない人。
2. 転じて、各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人を揶揄して言う言葉。
ここでも書かれているように、ネットでは「情弱」はほぼ常に2番目の意味で使われている気がします。私自身の経験で言うと、テレビをブラウン管から液晶に買い換えた時に「ハイビジョン対応」と書いてあったので、これでブルーレイディスクもばっちりきれいに見えると思っていたら、実はフルHD対応ではないことに気づいてがっかりしたことがあります。(正直、ちょっと「騙された!」と思いました。)当時ネットで調べてみると、どうやら典型的な「情弱」の例らしく、掲示板やら何やらの書き込みを見てションボリした思い出があります。
なぜこんな話をしているかというと、最近読んだ「知識の哲学」という本の中に「情弱」という言葉を思い出させる一節があったからです。少し長いですが引用します。
たしかに、科学的知識は、原理的には誰でも自分の目で確かめることのできる事実からえられるものだと言われてきた。できる限り必要な能力を獲得し、しかるべき情報を集めて、エキスパートの話を鵜呑みにするのではなく、エキスパートの信頼性を自らチェックできるようになるまで自分を高めるべきだということ、つまり認識論的依存を脱して知的自律性(intellectual autonomy)を求めるべきだということは、たしかに理想としては正当だ。… しかし、すべての知識の領域に関してそれを行おうとすることは、かえって非合理だ。これだけ高度化し複雑化した科学文明の中で合理的な認識者であるためには、認識論的依存をやめる訳にはいかない。(前掲 p.223-224)
「認識論的依存」とかいう聞きなれない単語がありますが、ざっくりまとめると、今の世の中、情報や知識の正しさを何でもかんでも自力でチェックしろというのは非合理的だ、他人とくに「エキスパート」の言うことをある程度信頼する(つまり鵜呑みにする)ことでしか、物事を考えることはできないんだということです。私は好奇心が強い上に、伝統的な教養主義を多分にひきずっているので、「非合理だ」と言われてしまった知的自律性に強いあこがれがありますが、現実問題として、著者の主張には大変説得力を感じます。
この部分を読んだとき「要はみんな『情弱』ってことじゃないか!」と思いました。さきほどの私自身の例で言うと、「ハイビジョンとHDというのは実は違うことを指していて、ハイビジョン対応といってもブルーレイが最高解像度で見えるかどうかはわからない」といった知識を持っている人が「エキスパート」で、私のような素人がエキスパートの助けもなく商品説明に書かれているのは正確には何を意味しているか知るのは難しい。それを「そんなことも知らないから『情弱』なんだよ!」と非難(あるいは侮蔑)する人は、裏を返せば、そういうことを自分で判断できる知的自律性を持つべきだ、という今の時代では「非合理」な要求をしていると解釈できるわけです。
「知識の哲学」を読む前から「情弱」という言葉は好きになれなかったのは、心のどこかでそんなことを要求するのは非合理的だという思いがあったからかもしれません。
何でもかんでもエキスパート並みに情報を精査する、というのは確かに非合理だと思います。
しかし、ネット界隈で一般的に言われている「情弱」というのは、「目の前の端末で調べれば1分で解るようなことすらも面倒臭がって調べたがらない愚か者」という意味で使われることが多い気がします。
情弱であること自体よりも、情弱の背景の怠惰さが揶揄の対象なのかもしれません。
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