偽札作りと論文捏造

通貨というのは不思議なもので、「他の人が通貨として受け取ってくれる」という前提を信じる人の数がある程度多くなると、実際に通貨として機能し始めます。逆に言うと「他の人は通貨として受け取ってくれないかも」と信念が揺らぎ始めると、途端に通貨として機能しなくなります。

偽札が問題になのは、それを掴まされて悔しい思いをするという個人的な損失よりも、偽札を掴まされるのが嫌なので真札も含めて受取が拒否されるようになることで、通貨の流通が麻痺してしまうことだと思います。

論文の捏造にも似た側面があります。

論文に書かれた内容は、査読者によりその正しさが精査されるわけですが、与えられた査読期間のうちに論文の中に書かれた情報だけで、その正しさを100%保証することは実際には不可能です。特に著者が意図的に内容を捏造した場合、それを完全に見抜くのは無理な話です。

論文が出版された後に追試で嘘がバレることもあります。しかし、研究者というのは他人の研究を追試するよりは自分の研究を進めることに忙しい(し面白い)ものです。なので、査読で見つけられなくてもいずれ追試により検証されるので大丈夫ということにはなりません。また追試で実験の条件を完全に再現することは難しい場合も多いため、追試で同じ結果が出なかったからと言って即座に論文が間違っているとは言えないという事情もあります。

捏造論文がそうでない論文と一緒に流通し始めると、そこに書かれている内容を文字通り受け取っていいものか怪しくなってきます。説明してきたように論文だけから真贋を見抜くのは難しいので、偽論文も真論文も区別なく疑ってかかるようになります。極端な場合、自分が信用できる人が書いた論文しか信じない、あるいは、他人が書いた論文は一切信じない、という研究者が出てくるかもしれません。

科学の世界においては論文が通貨です。論文が新たに発見された知識を載せて流通し、研究者はそれを受け取り、新たな知識を載せてまた論文を送り出す。その循環で科学は進展していきます。捏造論文はその流通を阻害する「偽札」のようなものです。偽札が通貨の流通を麻痺させるように、捏造論文は知識の流通を麻痺させます。

捏造の原因は個人に帰着させることはできるかもしれませんが、その影響は研究コミュティ全体にわたり、その責任を個人で担うことはもはや不可能です。研究者たちが捏造論文について一見過剰とも思えるような反応をするのは、捏造がコミュニティ全体を機能不全に至らしめるかもしれないからです。実際にどうするべきかはともかく、自身が長を務める組織で論文捏造が起きた時に京都大学の山中教授が辞任の可能性まで示唆したのは、当然とは言いませんが驚くべきことではない思います。

研究者も人間です。業績を出さなければ収入の道が絶たれる可能性もあります。様々なプレッシャーから「ちょっとした」「罪のない」捏造をする誘惑を感じることもあるでしょう。しかし、誘惑にかられたときに、それに身を任せてしまうのか、それとも更に深く考えるチャンスだととらえるのか、そこが大きな分かれ道です。

嘘をつくのと間違えることが違うように、論文を捏造することと論文で間違いをおかすのは全く別のことです。捏造からは何も学びはありませんが、真摯に問題に取り組んだうえで犯す間違いからは学びがあります。捏造をする人は研究者ではなくただの嘘つきです。間違いを犯す人は科学の発展に貢献する研究者です。研究者の本質は肩書にあるのではなく、その実践にあります。もし捏造の誘惑にかられたときは、そもそもなぜ自分が研究をしたいと思ったのか、立ち止まって考えてみるとよいと思います。

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