機械の賢さがわかるほど人間は賢いのか

以前「AI見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」の中で、AIの歴史は玉ねぎの皮むきのようだと書きました。それと対をなしているのは、人間は人間以外の知性を過小評価しているのではないか、という思いです。

人間がいままで成し遂げてきたことを考えると、たしかに人間は凄い存在です。(最近はあまり聞かなくなりましたが)万物の霊長などという尊大な自称をつけたくなるのもわかります。しかし、それは他の種類の知性を卑下する理由にはならないと思うのですが、なぜか世の中には別の種類の知性が存在しうるという考えを断固として拒否する人たちがいます。

最近「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」という本を読んでいるのですが、科学者の間でも、比較的最近まで、人間以外の動物に知性があるなどというと嘲笑される時代があったそうです。今では風向きが変わってきているようですが、それでも動物の知性について語るときは慎重にならざるえないようです。(著者は、進化論を受け入れていながら、知性に関しては人間とそれ以外の動物に断絶を積極的に認める人たちがいるのは不思議なことだと言っています。)

個人的には、動物を見ていると何を考えて生きているんだろうなぁと興味を持ちます。その興味の持ちようは他人を見ているときも本質的には同じです。(人間は見飽きているので、動物のほうが興味を引かれますが。)なので、私からすると、動物と人間の知性を同じ土俵にのせて話をするというのは自然で、そこからスタートして違いを調べるというのがごくまっとうな順番に思えます。

それと同じようなことが機械にたいしても起こらないでしょうか。

もし Google Home や Alexa のような知的に振る舞う機械が世の中に浸透して至るところで目にし触れ合うようになったら、動物や人間にたいして湧くのと似た興味が機械にたいしても自然と湧いてくるような気がします。(実際、旧式AIBOにたいして強い感情を抱く人は少なくないといいます。例:AIBOの里親募集ページ)おそらく機械を人間や動物と同等に扱うことは、最初はとても抵抗を受けると思います。しかし、一度それが当然だと思ってしまえば、同等に扱わないことのほうが不自然に思えてくるかもしれません。

仮にそういう時代が訪れたとしたら「人工」知能研究というのはもはや意味をなさないか、あるいはより一般的な「知能研究」の一部門になるでしょう。突拍子もない話に聞こえるかもしれませんが、世の中真面目にそういうことを研究している人たちがいます。もし興味があったらこの本を読んでみると面白いと思います。

AI見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり
(引き続き詠み人の情報をお待ちしています)

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